honekawanのブログ

文章汚い癖を克服するため頑張ります。

サンタさんプレゼント、純粋を希望

人は愛し合い、その結晶として子供を作る。愛で産まれ、愛で守られ、愛で育てられ、愛で世界を作る。それを繰り返し、人間の社会が出来上がった。

人は愛で産まれ、愛に生き、そして愛で死ぬ。

愛は莫大な幸福をもたらす。その逆も然り。莫大な幸福と同じ程度、不幸をもたらし得る。

幼少期、父親が殺された。兵士として戦争へ赴いた。これらは心を壊す原因に十分なり得るのだが、稀に起こることであろう。比べれば、恋愛における裏切り行為は決して稀な事例でなく、全ての人が経験していてもなんらおかしくない。であっても、恋愛における裏切り行為は人生の歯車を壊すに十分な刃物となり、合法的に人を殺す方法と表現しても過言では無い。

人は愛を生き、愛を失くし、愛に殺されかけたら、愛に死ぬことをいとわない。

恋愛は歳を重ねていくと回数も増えるのであるから、たかだか一人に悩む必要はない。そう軽視する者がいると仮想しよう。「たかだか一人」に注目すれば、伴侶となる者もそこから出てくるのであり、尊い命を産むのもそこであろう。その一人に一生をかけても良い覚悟を付けていれば、その反動は大きい。何も仕方ないことだ。

国家は二つの要素から成り立つ。実践的要素と尊厳的要素。前者は政府があたり、政策を作り、それを実践する役目を持ち、有権者に対して忠誠を尽くす。後者は君主があたり、前者に対して意義と正当性を与え、忠誠を尽くす相手は神にだけ、である。

こう、ウォルター・バジョットが述べていたと記憶している。

これは立憲君主制における政府と君主、各々の意味を説いたものである。勿論、政府は法律を作り、政策を実行し、有権者の暮らしを改善すべく、その努力をする。小学生を終了すれば、誰しもが理解できることだろう。しかし、君主は何故存在するのだろうか?と君臨する意義を理解できてない人は少なからずいるだろう。政府の役割が明瞭でわかりやすいのに対し、君主の役割というものは目に触れる機会が少ないからなのかもしれない。国民を代表して政に携わる人間は誰か?と聞けば、時間の経たぬ内に「政府」という声が上がる。政に関するという意味では、君主も国民を代表している、そこから繋げて「国民の上にある」と解するならば、政府だけで事足りるのではないかと疑問を抱くのだろう。

政府の決定事項は我々国民の日常に影響を及ぼす。しかし、君主の動きは「我々国民の日常に影響を及ぼす」と体験談のように語ることは難しいのであろう。私はそういう心理であるのだと納得している。

人の言動を規制するものは色々とある。その中でも「ルール」「マナー」は簡単に理解され、自然と使われている。電車で他の人に迷惑をかけてはいけない。これはマナーと呼べる。そして、校則上禁じられている行為を学校でしてはならない、というのはルールだ。日常的に遭遇している種もあれば、日常に関係あるものの、ワンランク上の種もある。

国家であれば法律と憲法が定められている。これはワンランク上の種に位置すると思う。と言えど、法律と憲法が同格であると表記しているのではなく、日常的な種と比べて双方共に「(ランク)上」としている訳です。ここで読者のグーグル検索の手間を省くため、検索結果を書き示すのであれば、以下の通り意味内容を説明できる。

法律
→個人の権利自由を制約するもの。
憲法
→国民の権利自由を制約するもの。

と、簡単に省略して書いたのですが、眠い中書いているのでもしかしたら間違ってるかもしれません。正確なところは各々が調べて検証していただいて、私はこの記事内で意図したいものを説明するための表現をしているとも理解していただいて、それでお互い賢くなれる平和な社会ができると思っています。
平和な社会にするため、法律・憲法が定められているわけですが、双方には相違点があります。法律は国民を縛っていると表現しても過言ではなく、憲法は国家を縛っていると表現しても過言ではない。国民一人一人の自由・権利を確立するため、「これはしてはいけません」と決める。そう、国民を法律によって縛るにも、縛りすぎては本末転倒であるため、法律の限界を決める。一種の監視体制ができているわけです。

前述で「法律と憲法は同格でない」と申したのは、憲法が法律を縛る上で「憲法の方が格上だぞー!」としてなければ意味をなさないから。勘も良ければ、頭も良ければそう気が付くと思います。

私は無知であるので敬語を以て説明したのですが、下からは常体で語ります。

日常的なルール・マナーに効力を持たせるため、又、良いものを良い、悪いものは悪いと分別のつけるように法律がある。法律と憲法の関係も然り。日常的なルール・マナー→法律→憲法、という流れを感じられずにはいられない。

人は色々の場面で評価されるものである。それは学校であったり、職場であったり、人間関係であったりする。人に対する「強い」と評価されるのは、勿論として場面によって観点が異なる。「人間関係として」という観点であれば、その人の性格が重視されたり、または人脈の広さを重視していたりする。そうして色々の強いとする理由が存在するのは承知の上だが、強いと評価する上で「論理性」という要素がとても大切なのだと考える。

人は感情によって動く。ロボットであれば人と比べて理性的であろうが、人は何においても「そう思った」という感情に留まることが多いだろう。そうして人であれば誰しもが感情を持っており、感情によって自分のために動くことがある。しかし、人は個人ではなく集団を優先に考える必要が生まれる場面がある。人は生きていれば集団に属することが必然的であり、幼少期〜少年期においても学校の一員として属し、また成人すれば職場という環境の一員となる。集団に属する上で重要になるのは「理屈」である。集団というのは個人が複数個集まっているものであり、1人が「それは嫌だ」としていても、他の1人が「それは良い」としているパターンは往々としてあり、そこで集団としての理屈が応用される。
1人が嫌と言うからといえど、もう1人の良いとする考え方を否定するには集団の考えを利用するしか懸命な方法はないのだ。じゃあ、嫌と言う一人の方が好きだから「嫌」という結論を導入しよう、と残りの1人が帰結してしまえば水掛け論の繰り返しになる。

これは上記の「論理性」に繋がるものであり、一人の感情を優先させた上の「嫌」という意見を「感情」と称すのであれば、一人一人を集合した集団の結論は「理屈」と言えよう。
そして、理屈は論理性を伴っている。

しかし、集団の意見だから「理屈だ!」「論理性がある!」と言えるわけでもない。
論理は「あらゆる物を加味した上」という意味の計画性を帯び、最適でこの上なく正しいと言えるものであると考える。
勿論、一時の場面において最適であっても「論理性のある」と評価しても仕方ないと思うが、それでは論理たるものが廃るだろう。

人間関係において、人は感情を優先して実行することが多い。遊んでる最中、「どこで遊ぼう」「誰を誘おう」と選択する場面はある。そこで「俺はこれが良いと思った!」という感情を出すのもいいが、比較的な懸命さを追求するのであれば、より論理的な選択肢を探るべきである。「ここで遊んだら、こういうデメリット・ロス・リスクがある」とか。
感情を相手に出したとしても、それが素晴らしいのであれば共感やら納得はされるだろうが、より論理的であればあるほど説得力がある。また、反対される可能性も減る。相手が否定したが故に衝突するようなリスクも減る。

と、当たり前のことを述べたのだが、ここで私の持論を書き表したいと思う。

人がより良い道を探すのであれば、論理性の他、短慮な性質を斥けるべきであると考える。
Aが「俺は猫が嫌いなんだよね」と発言、Bが「猫って可愛いじゃん!いい子じゃん!そんな差別的で可哀想なこと言うなよ!」と返す。
この場面を仮想したとき、Bの発言は短慮だと言える。Aは「猫が嫌い」と表現したに過ぎなく、「何故?」という理由の部分、「何において?」という観点の部分、「何であれば?」という限定詞の部分…と色々の背面が複雑であるのに、それを無視して攻撃的なリアクションをしてしまってる。
「猫が嫌い」だからといって、別にそこまで猫が嫌いなわけじゃないかもしれないし、正しくは「苦手」と表現すべき程度であっても何かしらの理由や慣習的な原因があったのかもしれないし、「野良猫」かも「飼い猫」かもしれないし、「噛んでくる猫が、その時において少し嫌いになるかもしれない」という度合いかもしれない。かくして「そう思う」という内心に留めるに過ぎなく、縦令猫と対面しても「嫌いだ!」という感情を表面に出したような反応をしないかもそれない。

人は相手を言語において攻撃する場合、色々な可能性を加味した上、深く考えて攻撃に実行すべきでもある。
「猫が嫌い」という言語に対して、「猫を虐待するな!」と攻撃する場合、嫌い→虐待してるに繋げるために実証すべきことは多く、実証できなくても論証すべきことは多い。実証する上で確固たる証拠を入手する過程は必要になり、また論証であれば相手に問答して言質を取った方が賢くもある。
そうでなければ賢くない。相手が「いやー!違うよー!」と好意的な反応をするのを期待するか、相手が反撃した場合に自分が不利になることを歯食いしばって待つしかない。相手を攻撃という名の否定する場合、間接的に「相手はバカである」とマウントするに類似し、「バカは悪い」という土俵の下で競っているのに自分こそ「バカだ」「悪い」と帰結してしまえば、攻撃したい意義がなくなるし、最悪の事態であれば無闇に相手を攻撃するクズなやつとレッテルを貼られ、友好関係を築くにあたって「意義のない友人候補」と評価され、他人に意義なく孤独に生きるべき人柄と思われる始末かもしれない。

[ 挨拶 ]

自分の思うことを徒然草の如く記述したいと思い、ブログを開設するに至りました。

 

私の尊敬している人物がいるのですが、当人の許可なく名前を挙げるのは問題がありますから、ここでは「御方」と呼ぶことにしましょう。

 

ブログを開設するにしても、どのサイトがいいのか迷ったわけですが、御方がはてなブログを使用していたので、御方はてなブログリスペクト!として、こちらのサイトで今後ブログを書きます。

__

[ 人生 ]

私はメンタルが不安定なのです。

 

どこか出かけたい場所があっても、何か欲しい物が思い浮かんでも、ネガティブな感情が交差して、実際に行動できないことが多くあります。そこで、ほろ酔い程度にウィスキーを飲み、酒の効果でポジティブになって、ようやく「ちょっぴり行ってやってもいいんじゃない?」程度の行動力を得られるんです。

 

そのぐらいメンタルヤバイんですよね。

 

また、病んでるときは「なんで生きてるんだろう?」と自分の生きてる理由を考えることがしばしば。将来消防士になりてぇ!とか、絶対恋人を幸せにしてやるぜ!とか、そういう将来的な目標もなく、生きる上の目的・目標で悩みますし、生きてる価値あるのかな〜?って生きる意義を見い出せずに悩むこともあります。

 

その問いの答えはまだ見つかりません。しかし、他者に問われたとき、自分を一時的に落ち着かせるとき、以下で説明するような哲学を活用するんですよね。

 

今回はその哲学を文章に書き表そうと思っています。

 

我々は人生を歩んでいますが、我々が現在立っているのは「半生」です。半生に存在する上で、人生について色々の悩みを抱えるわけですが、その原因は人生の先に辿りついてないからだと思うんです。

 

喩えるなら。

我々は今洞窟をさまよってる状態にある。洞窟の中は暗く、うっすら目にうつる物があっても、暗いため何物だろうと恐怖に感じる。しかし、洞窟の中をがんばって歩くことで、いつの日か出口まで辿りつく。洞窟の中は暗く、恐怖も危険もあるが、出口の先は明るく、安全な場所。

 

って感じなんですが、もっと噛み砕いて説明する必要があるので、次は山に喩えてみましょう。

 

山(っていうか森)の中は、平たい場所も高く屹立する場所もある。

平地を歩いてるときは、山に登るよりは楽。でも、山に登るとあらば、とても大変で辛い。

人生は、平地のように楽しいときもあれば、山のように辛いこともある。

また、山に登るような課題(=壁)に直面する事態も生まれる。

酒によって現実逃避しても無意味。山を登らなければ山を乗り越える術を身に付けられず、自分を成長させられない。山を迂回しても、遠く傾斜な道を歩むことになる。

 

って感じですかね。

 

要約すると楽しいときも悲しいときも併せてあるのが人生ってことなのですが、悲しいことばかりなのが現実です。

 

他者に「死にたい!」「人生楽しくない!楽しいことない!」って言ってる人がいると言いたくなるのがこれ。

人生は長く生きてこそ、やっと楽しいことを見つけられる。言わば、人生は「楽しい」を見つける度なんです。そのために、日常でちっぽけな楽しいこともかき集め、パズルを組み合わせて、人生を楽しいものに完成させる。

 

山の頂上まで登らないと、「この風景綺麗やー!」って分からないのもそう。人生は最後の最後にならないと、その意味が理解できないものなんです。対して、今の我々は所詮「半生」。まだ人生の途中なんです。そりゃ、人生楽しいー!って本気で思えないのも納得って感じです。

 

※以下、友達と哲学チックな話したときに送った文章。友達相手なので、読みにくかったり、文章汚かったりします。注意。

 

我々は半生に在る。半生を踏み、歩み、人生に向かってる。山の如く、平たくも立してもいる。平野を歩いてるときは相対的に楽しくもあり、山に登るときは難しくもあり、山から落ちるときは苦しみを味わう。海に落ちてしまえば、水面におることを保つことで精一杯であり、沈めばこの上ない苦しみを実感する。しかし、人は生命活動を行うことすらハードな土台の上に生きている。当然、山のような壁に直面し、それを乗り越えることで変態する。酒や薬等、現実逃避すれば、一時として山を迂回できても遠く傾斜な道を歩むことになり、ずっと山を乗り越える術を得ぬままでいる。洞窟に迷えば周りが暗く、何事も恐怖な物と視覚してしまうが、しっかりと一歩ずつを踏めば陽の下に辿りつく。太陽に照らされれば明るい気持ちになれるし、山の頂上に着けば達成感を己の物にできる。言わば、半生は洞窟の中で、人生は陽の下に辿りつくことを意味している。ゴールを実感してこそ、人生の意味を知る。半生はその過程であり、苦しみは手段でもある。苦しみを手段として自らの手のうちに収めれば、苦しみを以て成長を得ることができる。

__

[ 環境のせい]

 

私の家庭環境は複雑。5人家族なのですが、全員揃って何かしらの問題を抱えている。これは家族全員が自覚してることだと思う。

 

※父、母、姉、兄、私

※兄弟はそれぞれ3歳差

 

最近、家族旅行をしていた。姉が「家庭環境が悪かった。私はそのせいで欠点を持った。」と言っていた。要は環境を悪として、自分の欠点の責任を環境のせいにしてるって道理で、加えて「家族」と言ってるように、具体的に他者を指さしてるわけだ。

その発言に対して、私は反対の意見を持った。確かに環境が悪いことは悲運だ。自分の欠点の生じた要因が、環境にあるならそれはそれで間違いない。だが、環境のせいにするのは間違っていて、本来は自分を咎めるべきシチュエーションだろう、と。

 

環境は生物を変え、人をも変える。悪環境であれば、人は流されるがままに悪影響を受ける。結果、悪い所(=欠点)を抱えた人になる。

しかし、環境が悪かろうが、人は環境に順応できる。それは人に依らず、生物においても言えることで。たとえば、生息地の温度が高ければ生物は毛を薄く変態し、温度が低ければ毛を多く変態し、乾燥していれば皮を丈夫にする。鳥という敵がいれば、鳥に殺されぬように防衛の術を確立する。

生物の生きる土台は色々の困難に直面する環境に在るが、その困難に打ち勝つために強く変化するのは人間にも言えたことであろう。

 

人が川に落ちてしまえば、川に流され、結果溺れてしまう。そこで川という環境にケチつてる場合だろうか?文句垂れていればヨダレ垂らして死ぬ。川に流されて溺れるなら、川の流れに反してまで泳げばいい。

 

これは環境の悪影響を受けるのではなく、自分を改良すべきという持論に通ずるところがある。

 

ただ、川に落ちる以前の問題、川に落ちぬよう予防策を取っていれば済む話だろう。

 

或る場所に人間がおり、或る場所に川がある。川は位置を変えないが、人間は動く。川に溺れてしまう!等の問題が発生するのは、人間が川に向かって動くからでもある。自然界は、自然や生物同士で一定の距離感を保っている。その距離感を越えてしまえば、衝突を起こして当然。針がそこにあって動かないのに、人の手が針に近づけば刺さってしまう。

 

そういう、川や針という環境のせいではなく、人間のせいという考え方も一理あると思うのだ。

 

もう一度言う。環境は人を変える。

しかし、その変化は良くも悪くもある。環境による影響が悪ければ、「この悪いことに対抗しよう!よし、自分を成長させるぞー!」と改良(=成長)の動機になる。

その動機によって改良を実践し、成長を掴み取れば、結果的にこれって良かったんだなぁ〜ってポジティブに振り返られるだろう。

 

※以下、友達と哲学チックな話したときに送った文章。友達相手なので、読みにくかったり、文章汚かったりします。注意。

 

環境は人を変える。だからと言って環境が悪いのではない。川に落ちたからといえど、川が悪いとほざく前に、川の流れのままに自分を改良しないのではなく、泳げばいい。そもそも、川に落ちぬように予防すればいい。人がそこに在り、同じく、川もそこに在る。川は動かないが、人は動き、位置を変える。自然界は距離感を保ち、調和して成り立っている。川が動いて人に接近するのではなく、人間が位置を変えて川に接近し、川に落ちたがゆえに溺れる。針はそこにあって動かないが、人の手が針の方向に動けば刺さる。人間以外も含め、生物は環境に委ねるままではなく、順応して環境に多少なりとも勝るように生きている。生息地の温度が高いのであれば、毛を少なく変態する。また、温度の低い場合は毛を多く身に纏う。乾燥していれば肌を強くする。防衛の術がなければ、卵のごとく殻を張り、固く守る。先程も述べたが、環境は人を変えるが、その内容は良くも悪くもある。環境による変化が悪い種であれば、防衛するために良く変化する動機になる。この事を自分の姉が深く理解してくれたらいいのだが。

__

[ 揚げ足取り ]

 

さっき、いざ睡眠しよう!と横になり、毛布を掛けていた。俺は体の可及的全部を毛布で覆わないと安心できぬ。だからだろう。自然と首を毛布で包んでいたのだ。

 

そこでふと

「俺、前世で首を切られて死んだのか?」

と思った。

 

続いて

「前世で◯◯、って言葉って正しくなさそうで嫌だなぁ〜」

と繰り返し思った。

 

ここまでが前置きなのだが、その思いつきを派生させて話を進めていく。

 

人は正しくない言葉を日常において使う。多分、言葉の正しい/正しくないは、文法とか公用文とか常用語を基準として判断されるのだろう。常用語だっけ?常用漢字だっけ?忘れた。

 

「敷居が高い」の本来の意味は「不義理や面目のないことがあってその人の家に行きにくい」って意味らしい。要するに、あのコンビニでうんこ漏らしちゃっから行きにくいわー!みたいな感じ。「その人の家に」って限定された説明は初見…だからそこはよくわかりません。申し訳ありません。

しかし、現代では、また異なって「気軽に行きにくい!」って意味で勘違いされてるらしい。「あの店高級だから、場違い感あるくね?だから行きにくー!」みたいな。

 

文法の話をするなら、これは私がどっかで知ったヤツなんだけど、「例えば」は間違いで、正しくは「例を挙げるならば」みたいな。これ本当なのかどうかわからないけど。

他には「ご教示していただき〜」の「して」と「いただき」が同じ意味だから敬語の効果薄れてるー!とか。

 

(あー、もうわかんない。本当に文法の問題だったのかも、正しい例なのかもわかんなくなってきました。書いてて恥ずかしいったら。)

 

というように日本語って難しいんすよね。日常的に使われてる言葉が、本当に正しい使われ方なのかどうかの判断が難しい。完璧に正しくない!って言えるような文章を書ける人ってめちゃくちゃ少ないんで、文面の喧嘩においても「正しいかどうか」より「わかりやすいかどうか」みたいな観点で見られがち。自分の文章がマジで正しい言葉を使ってるのかってわからないし、難しい問題。そこで相手に「これ正しくないヤーン!」って指摘しても、自分も正しくなかったってブーメランの構図が出来上がっちゃう可能性もある。それなら、比較的に安全な方法で指摘した方がいいじゃんって話。

 

で、それとはちょっと違うんだけど、「前世は◯◯だったんじゃね」みたいなのって、前世が本当に◯◯だったのか証明できないじゃん。それに実証可能か否かで正しいか正しくないかも別問題になってくる。

 

ツイッターのレスバカは「前世が死刑で死んだのか実証できないじゃん!」とか噛み付いてきそうだけど、発言者は証拠ある前提で表現してるわけじゃないし、世間一般で認知される言葉を使ってわかりやすく表現してるだけ。そこで実証を求めてくるのってセンス感じない。

 

……書いてる途中なんですけど、ちょっぴり疲れちゃったので、一旦これにて終わりにします。もっと文章上手く書けるように頑張ります。ペコリンチョ。