honekawanのブログ

文章汚い癖を克服するため頑張ります。

人は色々の場面で評価されるものである。それは学校であったり、職場であったり、人間関係であったりする。人に対する「強い」と評価されるのは、勿論として場面によって観点が異なる。「人間関係として」という観点であれば、その人の性格が重視されたり、または人脈の広さを重視していたりする。そうして色々の強いとする理由が存在するのは承知の上だが、強いと評価する上で「論理性」という要素がとても大切なのだと考える。

人は感情によって動く。ロボットであれば人と比べて理性的であろうが、人は何においても「そう思った」という感情に留まることが多いだろう。そうして人であれば誰しもが感情を持っており、感情によって自分のために動くことがある。しかし、人は個人ではなく集団を優先に考える必要が生まれる場面がある。人は生きていれば集団に属することが必然的であり、幼少期〜少年期においても学校の一員として属し、また成人すれば職場という環境の一員となる。集団に属する上で重要になるのは「理屈」である。集団というのは個人が複数個集まっているものであり、1人が「それは嫌だ」としていても、他の1人が「それは良い」としているパターンは往々としてあり、そこで集団としての理屈が応用される。
1人が嫌と言うからといえど、もう1人の良いとする考え方を否定するには集団の考えを利用するしか懸命な方法はないのだ。じゃあ、嫌と言う一人の方が好きだから「嫌」という結論を導入しよう、と残りの1人が帰結してしまえば水掛け論の繰り返しになる。

これは上記の「論理性」に繋がるものであり、一人の感情を優先させた上の「嫌」という意見を「感情」と称すのであれば、一人一人を集合した集団の結論は「理屈」と言えよう。
そして、理屈は論理性を伴っている。

しかし、集団の意見だから「理屈だ!」「論理性がある!」と言えるわけでもない。
論理は「あらゆる物を加味した上」という意味の計画性を帯び、最適でこの上なく正しいと言えるものであると考える。
勿論、一時の場面において最適であっても「論理性のある」と評価しても仕方ないと思うが、それでは論理たるものが廃るだろう。

人間関係において、人は感情を優先して実行することが多い。遊んでる最中、「どこで遊ぼう」「誰を誘おう」と選択する場面はある。そこで「俺はこれが良いと思った!」という感情を出すのもいいが、比較的な懸命さを追求するのであれば、より論理的な選択肢を探るべきである。「ここで遊んだら、こういうデメリット・ロス・リスクがある」とか。
感情を相手に出したとしても、それが素晴らしいのであれば共感やら納得はされるだろうが、より論理的であればあるほど説得力がある。また、反対される可能性も減る。相手が否定したが故に衝突するようなリスクも減る。

と、当たり前のことを述べたのだが、ここで私の持論を書き表したいと思う。

人がより良い道を探すのであれば、論理性の他、短慮な性質を斥けるべきであると考える。
Aが「俺は猫が嫌いなんだよね」と発言、Bが「猫って可愛いじゃん!いい子じゃん!そんな差別的で可哀想なこと言うなよ!」と返す。
この場面を仮想したとき、Bの発言は短慮だと言える。Aは「猫が嫌い」と表現したに過ぎなく、「何故?」という理由の部分、「何において?」という観点の部分、「何であれば?」という限定詞の部分…と色々の背面が複雑であるのに、それを無視して攻撃的なリアクションをしてしまってる。
「猫が嫌い」だからといって、別にそこまで猫が嫌いなわけじゃないかもしれないし、正しくは「苦手」と表現すべき程度であっても何かしらの理由や慣習的な原因があったのかもしれないし、「野良猫」かも「飼い猫」かもしれないし、「噛んでくる猫が、その時において少し嫌いになるかもしれない」という度合いかもしれない。かくして「そう思う」という内心に留めるに過ぎなく、縦令猫と対面しても「嫌いだ!」という感情を表面に出したような反応をしないかもそれない。

人は相手を言語において攻撃する場合、色々な可能性を加味した上、深く考えて攻撃に実行すべきでもある。
「猫が嫌い」という言語に対して、「猫を虐待するな!」と攻撃する場合、嫌い→虐待してるに繋げるために実証すべきことは多く、実証できなくても論証すべきことは多い。実証する上で確固たる証拠を入手する過程は必要になり、また論証であれば相手に問答して言質を取った方が賢くもある。
そうでなければ賢くない。相手が「いやー!違うよー!」と好意的な反応をするのを期待するか、相手が反撃した場合に自分が不利になることを歯食いしばって待つしかない。相手を攻撃という名の否定する場合、間接的に「相手はバカである」とマウントするに類似し、「バカは悪い」という土俵の下で競っているのに自分こそ「バカだ」「悪い」と帰結してしまえば、攻撃したい意義がなくなるし、最悪の事態であれば無闇に相手を攻撃するクズなやつとレッテルを貼られ、友好関係を築くにあたって「意義のない友人候補」と評価され、他人に意義なく孤独に生きるべき人柄と思われる始末かもしれない。